すみぞめ散策

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~歴史に彩られた町 伏見・すみぞめ界隈~

伏見には歴史的価値のある寺社仏閣や旧跡が沢山ございます。

このページでは当店から徒歩で散策できる近隣の名所をピックアップしてご紹介いたしました。
尚、ここにご紹介しました寺院は何れも、いわゆる観光寺院ではありません。心静かにご拝観下さい。

当店から近い順にご紹介させていただきましたが、その他にも伏見・墨染には沢山の見所がございます。

当店にお越しいただいた際は 『すみぞめ 散策』 是非、足を運んでみて下さい。

深草山 墨染寺

【深草山 墨染寺(ぼくせんじ)】

「京料理 うを友」より南へ徒歩2、3分

深草山 墨染寺
深草山 墨染寺

美しい墨染桜が咲くことで知られる墨染寺は874年創建の、大変歴史の有るお寺で「墨染」の地名の由来となった寺です。
写真は夏に写したものなのでここにはご紹介出来ませんでしたが、春には境内一杯の桜が咲き、地元では「桜寺」と呼ばれています。華やかな染井吉野が咲き誇った後、寂しげな墨染桜(すみぞめざくら)が少し遅れて満開を迎えます。
現在の墨染桜は三代目で植え継がれて20年に満たない小さな若木ですが、無色で真っ白に花が咲き、その後次第に墨色を帯びてきます。

深草山 墨染寺
深草山 墨染寺
深草山 墨染寺
深草山 墨染寺
深草山 墨染寺
深草山 墨染寺

【亡き人を慕う桜伝説】

「深草の 野辺の桜し 心あらば 今年ばかりは 墨染めに咲け」

寺伝では寛平三年(891)太政大臣「藤原基経」がこの地に葬られたのを哀悼して、平安時代の歌人の上野峯雄(上野岑朝臣)が桜に向かって歌を詠むと、花が薄墨色に染まってしまったといわれています。

墨染寺は元々は清和天皇の勅願寺で貞観寺(ていかんじ)として創建されました。
貞観寺は時代と共に衰退してしまうのですが、「豊臣秀吉」が伏見に城下町を建設する際、この墨染桜の話を聞き、寺領千石を与えて再興しました。
この時、日蓮宗「墨染桜寺(ぼくせんおうじ)」と改め、本堂に「桜寺」の額を掲げたと伝えられています。

墨染寺は、謡曲や歌舞伎の演目などにも登場するお寺としても知られ、本堂前にある御手洗鉢は明和五年(1768)年に歌舞伎役者の二代目中村歌右衛門が寄進したもので「墨染井」と呼ばれています。

また寺宝として、長谷川等伯筆といわれる秀吉像等や、上野岑朝が詠んだ当時の墨染桜とされる古木の根元部分等を所蔵しています。

日蓮宗 墨染寺
住所
〒612-0051 京都市伏見区墨染町741番地
TEL
075-642-2675
桜の見ごろ時期

境内の桜は自由に見る事ができます。

  • 4月上旬、桜
  • 4月中旬、墨染桜
    (墨染桜は他の桜より少し遅れての開花となります。)
参拝時間 8:00~17:00
拝観料 拝観志納。

【清涼山 欣浄寺(ごんじょうじ)】

「京料理 うを友」より西南へ徒歩3分

清涼山 欣浄寺
清涼山 欣浄寺

清涼山と号する曹洞宗の寺院です。
寺伝によれば寛喜二年(1230)から天福元年(1233)まで、曹洞宗の始祖である道元禅師がこの地で教化に努め、当寺を創建したといわれています。その当初は真言宗でしたが応仁の乱(1467)の後、曹洞宗となりました。
時を経て、天正・文禄(1573~92)の頃に僧告厭が中興し、浄土宗に改められます。
それが更に時を経て、文化年間(1804~48)にもとの曹洞宗に改宗したそうです。

本堂には俗に「伏見大仏」と呼ばれる丈六(高さ約五・三メートル)の毘盧舎那仏(びるしゃなぶつ)をはじめ、阿弥陀如来像、道元禅師石像などが安置されており、この「伏見大仏」は木造の仏像としては日本一の大きさといわれています。

清涼山 欣浄寺
清涼山 欣浄寺
清涼山 欣浄寺
清涼山 欣浄寺
清涼山 欣浄寺
清涼山 欣浄寺

【深草少将 ロマンの地】

深草少将は小野小町との物語でよく知られています。
少将はここに邸宅をかまえ、ここから山科の小野小町のもとへ百夜通ったと言われています。
今もなお、本堂の前に遺る池はその昔、小野小町が来遊のおり、その美しい姿を水に映して…

「おもかげの 変わらで年のつもれかし よしや命にかぎりありとも」

…と詠んだと言われ、「姿見の池」と言われています。

境内の一隅には少将と小町の塚があり、またその前には少将遺愛の「墨染の井戸」があって、一に「涙の水」とも「少将姿見の井戸」とも言われています。
弘法大師利剣の名号が納められているこの井戸の水は今もなお涸れることがありません。

通ふ深草百夜の情 小町恋しい涙の水は 今も湧きます欣浄寺

「西条八十」(さいじょうやそ)

曹洞宗 欣浄寺
住所
〒612-0083 京都市伏見区西枡屋町1038番地
TEL
075-642-2147
拝観
  • 境内自由
  • 9:00~17:00
  • 団体予約要
  • 個人でも本堂、伏見大仏を拝観の場合は予約要
拝観料 拝観志納

【泰澄山 榮春寺(えいしゅんじ)】

「京料理 うを友」より南東へ徒歩6分

泰澄山 榮春寺
泰澄山 榮春寺

伏見城総構えが唯一残っているのがこの栄春寺です。観光寺ではありませんので、静かで落ちついた雰囲気があります。

室町時代の末期、永禄11年(1568)に、正親町天皇の信任の篤い名僧、傳養和尚が開山の伏見で最初の曹洞宗のお寺です。
慶長元年(1596)に慶長伏見地震と呼ばれる大地震により栄春寺は大きな被害を受けますが、翌年の慶長2年(1597)に徳川家康の家臣・酒井重勝が亡くなった妻の菩提を弔う為、堂宇造営に尽力し開基となりました。

境内は四季折々の花木が植わっており、特に春の桜、初夏のアヤメが美しく、自由に散策できるのでじっくりと見て回ることができます。
伏見城の遺構とされる総門や、落城の際の「血天井」が供養されている観音堂、伏見城の土塁など、その他にも多くのものを見る事ができます。

泰澄山 榮春寺

【総門】

伏見城の遺構とされる総門には重厚な鋲や金具が施されており、伏見城のものであることを語っているかのようです。

【本堂】

本尊は三尊形式の釈迦如来像で十六羅漢像を両側に持ちます。
この釈迦如来像は最澄作と伝わっており、徳川家康の家臣である酒井重勝が寄進したそうです欄間にも十六羅漢像が掘られており、非常に見事です。

また本堂に入って、思わず目を奪われるのが「絵天井」。
こちらは重要文化財にも指定されているもので、内陣の天井には龍図、中陣の天井には七福神や花がかれており、極楽浄土を現しているそうです。

泰澄山 榮春寺
泰澄山 榮春寺
泰澄山 榮春寺
泰澄山 榮春寺
泰澄山 榮春寺
泰澄山 榮春寺

【伏見城総構え(惣構え)跡】

「総構え」とは城やその城下の外周を土塁や石垣で囲った城郭構造を言います。また、土塁とは堀の内側に積み上げられた大きな土盛りのことです。
栄春寺の境内北側にある墓地から茶室「指心案」のある庭の北側にかけて、伏見城総構えの土塁が遺されています。これは現存する唯一の伏見城土塁跡で貴重な遺構の一つです。

このあたりの土塁は、あの大河ドラマ『天地人』でも知られる上杉景勝・直江兼継が豊臣秀吉の命で造ったそうです。

土塁には孟宗竹が植えられていますが、これは土塁を守るために植えられていたとも考えられています。
とはいえ、ただ竹であればよかったわけではありません。孟宗竹を秀吉が選んだのは、この竹の名称の由来でもある逸話を秀吉が好んだからだといわれています。
また、孟宗竹は茶室「指心案」の窓からその姿を見ることができるようになっています。

土塁は、後に二段の石垣で補強されています。
戦国時代の城の多くは、土塁によって囲まれており、伏見城もその一つだったようです。
やがて、戦国末期から江戸時代に建てられる城には土塁を石で覆った石垣が多用されるようになるそうです。

泰澄山 榮春寺
泰澄山 榮春寺
泰澄山 榮春寺
泰澄山 榮春寺

【観音堂の血天井】

伏見城落城の際に最後まで城を守り、自害して一生を閉じた総大将鳥居元忠を始めとする1800人の兵士の魂。
彼らの血が染み込んだ血天井はこの観音堂に供養され、遺されています。
非公開となっていますので中に入って見る事はできません。そとから静かに合掌いたしましょう。

泰澄山 榮春寺
泰澄山 榮春寺
泰澄山 榮春寺
泰澄山 榮春寺
泰澄山 榮春寺
泰澄山 榮春寺

長沼宗敬澹斎の墓・碑

―長沼流法兵学の祖―

栄春寺には、江戸時代の代表的な兵学者長沼宗敬澹斎のお墓があります。
澹斎は寛永十二年(1635)信州松本で生まれ元禄三年(1690)伏見竹田で歿し榮春寺に葬られたそうです。

その兵法は義兵王道論に立ち、鉄砲や海防も論じ、諸潘の門弟に支持され尊敬されました。
墓の横には、会津藩主によって顕彰碑が建立されています。

また、『忠臣蔵』の浅野内匠頭、大石内蔵助ら志士もこの栄春寺に祀られているそうです。

日本曹洞宗 榮春寺
住所
〒612-0053 京都市伏見区桃山町丹下30番地
TEL
075-641-2070
拝観
  • 境内自由
  • 9:00~17:00
  • 団体予約要
  • 個人でも本堂、伏見大仏を拝観の場合は予約要
拝観料 拝観志納

曹洞宗 榮春寺

【勝運・学問と馬の神社 藤森神社(ふじのもりじんじゃ)】

「京料理 うを友」より南東へ徒歩6分

勝運・学問と馬の神社 藤森神社
勝運・学問と馬の神社 藤森神社

【勝運・学問と馬の神社】
菖蒲(尚武)の節句発祥の地

藤森神社は、とても歴史のある神社で、創建は203年です。

つまり、その起源はなんと平安遷都の794年よりずっと前まで遡ります。
伏見と言えば伏見稲荷大社が有名ですが、伏見稲荷大社の創建(708年-715年)よりも500年以上古い歴史があり、神功皇后によって創建された皇室とも大変ゆかりの深い古社です。

馬の神様、勝負(尚武)の神様として有名ですが、日本書紀の編者であり、日本最初の学者である舎人親王を祭神として祀ってある事から学問の神としても深く信仰されています。

【扁額と近藤勇】

通常、鳥居には、社名が書かれた扁額がかかっているのですが、藤森神社の鳥居には扁額がかかっていません。
もともと鳥居ができた時から扁額がなかったわけではないそうです。

藤森神社の説明書によると、この鳥居には、正徳元年(1711年)の銘があり、以前は、後水尾天皇宸筆の額がかかっていたそうです。
そのため、江戸時代には、参勤交代で藤森神社の前の通りを通行する際、駕籠から下りて拝礼をし、槍などは倒して通らなければならなかったそうです。
しかし、幕末の動乱期に入り、「そんな悠長なことをしていては、時代に合わない」と、近藤勇が扁額をはずしたそうです。

それ以来、この鳥居には扁額がかかっていません。

勝運・学問と馬の神社 藤森神社
勝運・学問と馬の神社 藤森神社
勝運・学問と馬の神社 藤森神社

【本殿】

本殿は正徳2年(1712)に中御門天皇より賜ったとされています。

  • 本殿中央(中座)には素盞鳴命、別雷命、日本武命、応神天皇、神功皇后、武内宿禰、仁徳天皇
  • 本殿東殿(東座)には天武天皇、舎人親王
  • 本殿西殿(西座)には早良親王、伊豫親王、井上内親王

全部で十二柱の神を祀っていることから、長い歴史の過程のなかで他のいくつかの神社と合併してできたものと思われています。

勝運・学問と馬の神社 藤森神社
勝運・学問と馬の神社 藤森神社
勝運・学問と馬の神社 藤森神社
勝運・学問と馬の神社 藤森神社

【御旗塚】藤森神社の発祥の起源

本殿の脇に太い木の株を祭った「旗塚」があります。
社伝によると神功皇后が三韓征伐から凱旋した後、藤森神社の地を聖地として兵器を納めて、軍旗を立て、祭った塚で、1800年も前の藤森神社の発祥の起源です。

塚の上の枯れた株は、一位樫(イチイガシ)で、「いちいの木」と呼ばれています。
「いちいの木」は「いちのきさん」とも称されて旗塚の木の株をさすり祈ると腰痛が治るという信仰があり、新撰組の近藤勇も祈願にたびたび訪れたそうです。

勝運・学問と馬の神社 藤森神社

【神鎧像】(かむよろいぞう)

社伝によると、早良親王が、781年に陸奥の反乱に対し、征討将軍の勅を受け、5月5日に藤森神社に詣でて戦勝を祈願し出陣されました。

その武勇の象徴として、この神鎧像(かむよろいぞう)が建立されたそうです。

勝運・学問と馬の神社 藤森神社

【御神水】名水「不二の水」

「不二の水」ふじのみず

二つとないという意味で不二の水と言われています。
地下約100メートルからり湧き出る御神水で、氏子はもとより、遠方より水を汲みに来られる人々が後を絶たないほどです。

勝運・学問と馬の神社 藤森神社

【菖蒲(尚武)の節句発祥の地】

藤森神社は菖蒲の節句発祥の地といわれています。

毎年、五月五日の『端午の節句』は藤森神社のお祭り『藤森祭』が盛大に行なわれます。
藤森祭は菖蒲の節句発祥の祭と言われ、各家々に飾られる武者人形には藤森の神が宿るとされています。

節句はもともと中国より伝わり、五月の節句は菖蒲の匂いで厄払いをし健康と長寿を願う風習がありました。
それが時の流れのなかで、「菖蒲」と「尚武」を掛け、男子のたくましい成長を願う節句へと変化して今に受け継がれいます。

勝運・学問と馬の神社 藤森神社

勝運・学問と馬の神社 藤森神社

【義民碑】

≪伏見を救った伏見義民≫

南門の鳥居をくぐってすぐ左手は児童公園になっており、そこには「天明の伏見義民」の一人、深草出身者の「焼塩屋権兵衛」の顕彰碑があります。

「伏見義民」とは、三代目伏見奉行・小堀政方の悪政から命懸けで伏見を救った七人の英雄です。

小堀政方は、自らの浪費のために莫大な御用金を課して、伏見の町民を苦しめました。
天明五年(1785)、これに耐えかねた文珠九助ら七名の町人が、処罰を覚悟で江戸に行き、伏見奉行の悪政を幕府に直訴します。

その後、小堀政方は伏見奉行を罷免されることになります。

しかしその頃には既に、直訴した七名は獄中で相継いで病死していたそうです。

この事件以来、伏見町民を救い、悲惨な最期を遂げた七名は、感謝と尊敬を込めて「伏見義民」と呼ばれ、今も称えられています。

【藤森祭】菖蒲(尚武)の節句発祥の祭

毎年5月5日は『藤森祭』が盛大に執り行なわれます。

『藤森祭』では様々な神事が奉納されます。

美術的価値の高いことでも有名な『御輿巡行』や迫力満点の『掛馬神事』、『藤森太鼓』などなど見所も満載です。

勝運・学問と馬の神社 藤森神社
勝運・学問と馬の神社 藤森神社

【節分祭並追儺式】

藤森神社では2月の節分当日、節分祭並追儺式が行なわれます。

藤森神社の節分祭は伏見区の節分祭で一番規模が大きいと言われています。
午前10時より節分祭が行なわれ、午後6時より太鼓・雅楽・舞楽の奉納。午後8時より追儺式、年男による豆まきが行われます。

一番寒い時期ですが、甘酒の無料接待もございますので是非足を運んでみてください。

勝運・学問と馬の神社 藤森神社
勝運・学問と馬の神社 藤森神社

【紫陽花まつり】

紫陽花の宮として知られる藤森神社の境内には二か所に紫陽花苑があります。
延べ1500坪の苑内には3500株の紫陽花が植えられており、紫陽花の季節には、例年多くの参拝者が訪れます。

紫陽花苑の開苑期間中は、様々な催しが行われます。
運勢鑑定や舞楽奉納、藤森太鼓演奏奉納、蹴鞠などです。

また、開苑期間の中日となる6月15日に行われる『紫陽花祭』は、午前10時より神事が行われ、献花、献茶、神楽の奉納が行われます。

勝運・学問と馬の神社 藤森神社
勝運・学問と馬の神社 藤森神社

【紫陽花苑】

(6月上旬~7月上旬)   ○開苑時間 午前9時~午後4時  ○入苑料 300円(第一と第二を合わせて)

【年中行事】

ここでは紹介しきれませんが藤森神社では年間を通して様々な神事や祭事が行なわれます。
詳しくは藤森神社の公式ホームページをご参照下さい。

勝運・学問と馬の神社 藤森神社
勝運・学問と馬の神社 藤森神社
勝運・学問と馬の神社 藤森神社
勝運・学問と馬の神社 藤森神社
勝運・学問と馬の神社 藤森神社
勝運・学問と馬の神社 藤森神社
藤森神社
住所
〒612-0864 京都市伏見区深草鳥居崎町609
TEL
075-641-1045

藤森神社

公式サイトURL:http://www.fujinomorijinjya.or.jp/

【如意山 光厳院 西福寺(さいふくじ)】

「京料理 うを友」より北東へ徒歩12分

如意山 光厳院 西福寺
如意山 光厳院 西福寺

西福寺は、浄土宗本派の寺で如意山光厳院と号し、南北朝時代(1336~92)に、北朝初代の光厳天皇が念仏堂として創建したと伝えられています。この時代、大光明寺など北朝ゆかりの寺院が建立されますが、光厳院(西福寺)もその一つだったようです。

伏見は平安時代中期に鳥羽殿や伏見殿が創建され政治の中心地となった地で、伏見殿はその後、持明院系(後深草・伏見・後伏見・花園天皇)の皇室領として受け継がれ北朝の歴代天皇に継承されました。
光厳天皇は南北朝騒乱期の北朝方の天皇として最も辛酸をなめられた天皇です。延文2年(1357年)に河内の金剛寺の幽閉所から帰洛され伏見の奥(大亀谷敦賀)に閉居し世俗を一切絶ち禅門に帰依されたと伝わります。
「玉くしげ あげてしみれば 今朝よりも 身にも袖にも 涙落として」
…とは、その頃の詠歌であるとされます。
後に丹波国山国村(北桑田郡京北町)の常照寺に移り、貞治3年(1364年)7月7日に崩御されたそうです。

その後時は流れ、光厳院は文禄年間(1592~95)に豊臣秀吉が伏見築城に際して現在地に移転し、寺名を西福寺と改名しました。教誉上人を中興開山とします。

如意山 光厳院 西福寺
如意山 光厳院 西福寺
如意山 光厳院 西福寺
如意山 光厳院 西福寺
如意山 光厳院 西福寺
如意山 光厳院 西福寺

本堂には中央に本尊・阿弥陀如来像、脇仏に観音菩薩と勢至菩薩を安置し、他に光厳天皇画像、位牌を安置した小堂(光厳院)がございます。

また境内には、歌人・田中常憲の歌碑がございます。
田中常憲(たなかつねのり)は、明治六年に鹿児島県に生まれ、上京して落合直文に歌を学びました。
各地の中学校で校長として教育に献身しながらも歌人として作歌も続け、晩年に歌誌「新月」を創刊し多くの人材を育てました。
この西福寺の傍に住み、昭和三十五年に八十八才で亡くなられたそうです。

歌碑には…
「ふかくさの 野辺の雲雀(ひばり)よ 春たたば わが墳の上の雲にきてなけ」
…と刻まれています。
西福寺は伏見を中心とした「洛南七福神」の一つでもあり「寿老人」のお寺でもあります。
『伏見七福神巡り』別名『洛南七福神巡り』は、大正時代には隆盛を極め、盛んに巡拝されていたそうです。

浄土宗 西福寺
住所
〒612-0849 京都市伏見区深草大亀谷西寺町56
TEL
075-641-1531

浄土宗 西福寺

公式サイトURL:http://saifukuji-kyoto.com/